□ 遺跡だより 20 □

〜 大宰府に朱雀大路はあったのか〜 太宰府市教育委員会 文化財課
◇ 朱雀大路

1. 朱雀大路とは
2. 朱雀大路を発掘する    
はじめての発掘成果
古い地図を復元する
その後の発掘調査
昭和23年の地図に見る朱雀大路の痕跡
3. 大宰府に朱雀大路はあった
4. 朱雀大路の規模比較図

【朱雀大路とは】
 平城京や平安京をはじめとする古代の都を設計するときは、背後に丘陵を有し、南に向かって緩やかに
低くなってゆく平野を恣意的に選び、その北端の中央付近に宮殿を配置し、その前面に都市を展開するの
が一般的な在り方でした。
 こうした古代都市の中心には、そのメインストリートとしての役割を担う南北方向の大通りが宮殿の正
面に造られました。この大通りを都では朱雀大路(すざくおおじ)と呼んでいました。平城京の朱雀大路
は、京の入口に当たる羅城門(らじょうもん)から宮殿入口の朱雀門(すざくもん)までの長さ約4km、幅
はおよそ90mもある壮大なものでした。
 
【朱雀大路を発掘する】
 大宰府に朱雀大路が存在していた事をしめす古文書は残っていません。しかし、朱雀大路に該当するメ
インストリートが大宰府にも造られていたのではないかとする意見が早くからありました。
 大宰府は、天皇が居住し政治を行っていた場ではありませんが、都の出先機関であるとともに、九国二嶋の統括を司る役割を担うという大きな仕事を行っていた所ですから、当然都に似た大きな都市が存在していたと考えられます。この想定は最近の発掘調査の進展で、徐々にではありますが裏付けられつつあります。
 
【はじめての発掘成果】
 そのような中、昭和61年度の大宰府条坊跡第64次調査(大字南287)で朱雀大路の東側の側溝ではないかと考えられる、奈良時代の南北方向の溝が調査されました。この溝の中心は大宰府造営の中心線と考えられているライン(もちろん目に見えるものではありません)から東へ約19.8mのところに位置しており、単純に計算すると大路の幅は40m近くになるのではないかと考えられました。(この時の成果は『都府楼』第5号に記載しています。)
 
【古い地図を復元する】
 その後、太宰府市教育委員会では昭和23年に米軍が軍事目的で撮影した航空写真から当時の地図を復元する作業を実施しました。なぜ、こんな仕事をしたのかというと、理由はいろいろありますが、その一つとして、今では住宅が建て込み地形がわかりにくくなっている所でも、戦後すぐの太宰府市(当時は町)ではまだ平野部のほとんどが農地で、道路跡や寺院跡といった遺跡の痕跡も探しやすいと考えたからです。その結果この写真には朱雀大路の痕跡ではないかとみられる水田や小道、溝などが写っていましたので、完成した地図にも予想どおりくっきりとその痕跡を観察することができたわけです(第1図)。
 
【その後の発掘調査】
 平成2年度にはいり筑紫野市教育委員会が大宰府条坊跡第107次調査として実施した地点(筑紫野市大字立明寺)から、今度は西側の側溝ではないかとみられる南北方向の溝が検出されました。この溝の中心は大宰府造営の中心線から西に約16mのところにあり、先の第64次調査の成果と併せて西側と東側の溝はその中心間の距離が約36mになることが分かりました。そして溝の幅を考慮した場合、道路面の幅はおよそ35m程度になるのではないかと推定できるようになりました。
 これを裏付けるように今年度調査した大宰府条坊跡第133次調査(大字南323-1)でも西側の側溝推定位置に奈良時代の南北溝が見つかり、大宰府の都市の中心を南北に貫通するメインストリートの存在はほぼ確実になったと言えるようになりました。
 これらのデーターを総合すると、大宰府の朱雀大路は、両側の側溝を含めた、道路としての占有幅は約40mに及ぶことが推定され、平城京のおよそ半分弱の幅を有する当時としては巨大なものだったのです。
 
【第1図 昭和23年の地図に見る朱雀大路の痕跡】
 
【大宰府に朱雀大路はあった】
 大宰府における朱雀大路の調査や研究は先に記したとおり、最近になって活気を帯びてきたといえます。調査地点は狭いながらも3地点になり、いよいよその骨格が見え始めたところです。
 この幅40m余という広大な道路を当時の人が本当に朱雀大路と呼んでいたのかは分かりませんが、都に次ぐ大都市大宰府に存在していたメインストリートを、今の我々が「朱雀大路」と呼んでも決して言い過ぎではないでしょう。
 ところで、この大路の起点は都にならえば当然朱雀門ということになります。いまこの門の遺跡は残っていません。しかし、昭和57年度の御笠川改修工事で大宰府政庁跡の正面に位置する川の中から大きな礎石が発見されています。規模といい、位置といい文句なしの礎石です(今は政庁前の広場に移設されています)。そして終点は古代官道(西海道)との合流点になります。いまこの位置は明らかではありませんが、二日市温泉付近と考えられています。このことから大宰府の朱雀大路は、総延長が2km強の大通りであったことが推定されます。 
 当時の人々(新羅からの使者も多く含まれていた)は鴻臚館(こうろかん)から官道を通り、水城の西門を通過して左手遠くに大宰府の甍(いらか)を見、その向こうには霊峯宝満山を仰ぎつつ、二日市温泉付近に至って官道と合流する朱雀大路を北上したのでしょう。そして今度は四王寺山を背景にした大宰府政庁を正面に、その右手には観世音寺の五重塔が聳え、大路の両側には官人の居宅が立ち並ぶといった風景に圧倒されながら、広大な朱雀大路を進み御笠川にかかる橋をわたり、壮大な朱雀門をくぐりぬけ大宰府政庁に到達したものと想像されます。
 この雄大な景観をいま復元することは不可能ですが、自然の風景を取り込みながら大宰府に訪れる人々を圧倒させる光景は、古代大宰府の権力を演出するのに充分すぎる効果があったのではないでしょうか。
 (1993.3.31 文責 狭川)
 
【第2図 朱雀大路の規模比較図】

 

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